/令和8年10月16日 鑑賞
中九州アートミュージアムで開かれている二人展「暮らしに彩りを求めて」を訪れた。
水彩画の波津久剛先生、油彩画の後藤富子先生。お二人の作品が、それぞれ20点ずつ、合わせて40点展示されている。大分合同新聞の後援もある展覧会である。
今回、会場へ足を運ぶことになったのには、ちょっとしたご縁があった。
波津久剛先生の奥様と、私の女房は、食推・・・・などの活動を通じて一緒になる間柄である。また、あるお寺の坊守様は波津久先生の親しい友人で、応援者でもあり、女房とも親しくされている。
そんなつながりから、二人で会場を訪れることになった。
ところが、会場に着くと、波津久さま坊守様女房は絵の話をするかと思えば、お寺の話になり、日頃の集まりの話になり、いつの間にか井戸端会議のような雰囲気で盛り上がっている。
私はといえば、その話の輪に入ることができず、一人で作品を見て回ることになった。
しかし、これがかえってよかったのかもしれない。
誰かと話しながら見る絵も楽しいが、一人で作品の前に立ち、自分の心で感じる時間もまた、格別なものだからである。
心を奪われた一枚「黒岳・暖流」
波津久剛先生の水彩画の中で、私の心に強く残った作品がある。
「黒岳・暖流」である。
絵の中には、背の高くない草が一面に広がり、あたりには霧がかかったような、しっとりとした空気が漂っている。その中に、十数本ほどの木々がすっと伸びている。カシの木だろうか。
私がとりわけ目を奪われたのは、小川のほとりに立つ二本の木だった。
根元が変形したような、その独特の姿が実に見事に描かれている。長い年月、流れる水のそばで、風雨に耐えながら生きてきたのだろうか。
その根は、まるで周囲の自然を守っているかのようにも見える。
小川の水は澄みきっている。静かに流れる水の底には石が見え、落ち葉が沈んでいる。絵を眺めていると、木々の間から鳥のさえずりまで聞こえてきそうだ。
私は、しばらくその絵の前から離れられなかった。
水彩画でありながら、そこには水の冷たさや、湿った土の匂い、霧に包まれた森の静けさまで感じられるような気がした。
絵を見ているはずなのに、いつの間にか自分がその自然の中に立っている。
波津久先生は、この風景をただ眺めて描かれたのではないのではないか。長い時間、その自然の中に身を置き、木々や水の流れと心を通わせ、いつしか自分自身も自然に溶け込んでいかれたのではないか。
そんな想像が膨らんだ。
残念ながら、この日は波津久先生がご病気のため会場にいらっしゃらず、お会いすることはできなかった。
それでも、作品の前に立っていると、先生が何を感じ、何を伝えようとされたのか、少し分かったような気がした。
言葉を交わすことはできなくても、絵を通して作者の心に触れることができる。
それもまた、芸術の素晴らしさなのだろう。
思い出した、清らかな水の湧く場所
この絵を見ているうちに、私は昔のことを思い出した。
数十年前、職員時代の上司で、のちに組織のトップに立たれた方がいた。その方は、健康のために水が大切だと、いつも話されていた。
その方は、乗用車をトラックのような荷台のある車に替え、大きなプラスチック製の水がめを積んで、月に一、二度、湧き水を汲みに出かけていた。
その話を聞いて、私もその場所を訪れたことがある。
そこには、驚くほど豊かな水が湧き出していた。水を汲むにも料金が必要だと聞いたが、それほど清らかな水が湧く場所だったのである。
あの場所のことを、今でも心の中に覚えている。
自然の中には、人の暮らしを支え、健康を守り、心まで清らかにしてくれるものがある。
そうした風景を写真に収め、子どもたちにも見せてやりたい。そして、この自然の素晴らしさを話して聞かせたい。
そんな思いを、波津久先生もまた、絵に託されたのではないだろうか。
自然は、私たちが生きている間だけのものではない。
次の世代、そのまた次の世代へと残していかなければならない、大切な財産である。
一枚の絵が、忘れかけていた思い出を呼び起こし、自然を守り、未来へ伝えることの大切さまで考えさせてくれた。
それだけでも、今日ここへ来た意味があったと思う。
後藤富子先生の油彩画「結い」
もう一人の作家、後藤富子先生の油彩画にも、心に残る作品があった。
「結い」である。
波津久先生の作品が、静かな自然の中へ私を誘ってくれたとすれば、後藤先生の作品からは、人の暮らしや人生の華やかさ、そして女性の力強さが伝わってくるようだった。
赤や白をはじめとする色彩。その中から、女性の持つ美しさや、内側から湧き上がる生命力のようなものが感じられる。
人生には、いくつもの節目がある。
若い頃、働き盛り、子育て、地域での活動、そして年齢を重ねてからの暮らし。それぞれの時期に、それぞれの役割があり、人とのつながりがある。
後藤先生の作品を見ながら、先生ご自身も、さまざまな人生の節目を大切にしながら歩んでこられたのではないかと思った。
華やかさの中にも、積み重ねてきた年月の重みがある。
年齢を重ねても、人は自分の人生を彩ることができる。色を選び、形をつくり、自分の思いを作品に込めることができる。
それは、絵画だけの話ではない。
私たちの日々の暮らしも同じではないだろうか。
誰かと語り合うこと、山を歩くこと、畑を耕すこと、文章を書くこと。
何気ない毎日の中にも、自分らしい色を添えることができる。
後藤先生の作品を眺めながら、そんなことを考えた。
暮らしに彩りを求めて
今回の二人展で、私は対照的な二つの世界に出会った。
一つは、森の静けさや清らかな水の流れを感じさせる自然の世界。
もう一つは、色彩の中に人の暮らしや人生の豊かさを感じさせる世界。
表現の仕方は違っても、どちらの作品にも、作者が大切にしてきたものが込められているように思う。
絵を見るということは、ただ上手だ、きれいだと感心するだけではない。
自分の過去を思い出したり、自然の大切さを考えたり、これからの人生を見つめ直したりすることでもある。
会場では、女房たちの話の輪に入れず、一人で絵を見ていた私だが、結果として、自分自身と静かに向き合う時間を持つことができた。
これもまた、よい時間だった。
人生の彩りは、若い頃だけにあるものではない。
八十を過ぎた今でも、初めて見る絵に心を動かされ、昔の思い出に浸り、自然の美しさに感動することができる。
それこそが、暮らしに彩りを求めるということなのかもしれない。
いつかまた、お二人の作品に出会える機会があれば、ぜひ訪れてみたい。
そのときは、今日とはまた違った思いで、絵の前に立つことだろう。
絵は、作者の心を映す。
そして、その絵を見つめる私の心にも、また新しい彩りを添えてくれる。
そんなことを感じた、秋の一日であった。
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