/―命を授かった一日―令和八年七月十八日 下見登山
/夏空は、どこまでも青かった。
佐伯市宇目へ向かう国道三二六号。
歌げんか橋を渡るころ、車窓には深い緑が広がり、
今日という一日が、静かに始まっていた。
松さん、天さん、そして私。
三人だけの下見である。
車は原生林の中をゆっくりと登っていく。
谷底には、銀色の糸のように川が流れ、
木々の間から、その姿を時折のぞかせる。
人里の気配は遠く、
聞こえるのは鳥の声と風だけ。
千枚平から観音滝へ。
整備された細い橋を渡り、
小観音滝までは穏やかな山歩きだった。
しかし、その先から山は本当の姿を見せ始めた。
落ち葉に埋もれた道。
崩れたガレ場。
倒木をくぐり、
湿地を越え、
赤いテープだけを頼りに進む。
一歩先が道なのか、
谷なのか。
誰にも分からない。
ヒルは静かに足元へ忍び寄り、
天さんには六匹 松さんには三匹 私は一匹
靴を脱ぎ、
一匹ずつ取り除く姿に、
山の厳しさを知る。
それでも谷を越え、
沢を渡るたびに、
川のせせらぎだけは
「こちらだ」と語りかけてくれた。
そして、
ようやく観音滝。
目勘定であるが
幅十メートル、
高さ四十三メートル。
白い水が岩肌を一気に滑り落ち、
山深い静寂を震わせる。
誰も言葉を発しない。
滝の音だけが、
私たち三人の胸に響いていた。
握り飯を囲みながら、
本番の登山について話し合う。
「このコースは危険だ。」
その結論に、
誰一人異論はなかった。
安全こそ、
登山の第一歩だからである。
帰路。
事故は突然やってきた。
幅三十センチほどの細い山道。
足元の石を確かめながら慎重に歩いていた、その瞬間。
身体が宙に浮いた。
気が付くと、
私は谷へ落ちていた。
7~8メートル。
小さなくぼみと一本の若木。
その一本が、
私の命を受け止めてくれた。
上からは
「大丈夫か!」
二人の叫び声。
私は声が出なかった。
しばらくして、
胸いっぱいに息を吸い、
「大丈夫!」
そう叫び返した。
その声を聞いた二人の安堵は、
どれほど大きかったことだろう。
さらに谷の川約50メートル下
沢歩きをしていた見知らぬ人が
大きく手を振りながら叫んでくれた。
「大丈夫か!」
その一言が、ありがとう
どれほど勇気になったことか。
人は、
見知らぬ誰かの優しさに
生かされることがある。
胸の痛みに耐えながら歩き、
ようやく駐車場へ戻った。
三人とも、
言葉少なに空を見上げた。
生きて帰れた。
それだけで十分だった。
病院が休みで二日後。
病院のレントゲン写真には、
肋骨七番の骨折と内出血。
医師は静かに笑って言った。
「三、四か月すれば治りますよ。」
私はその言葉を聞きながら、
あの日の若木を思い出していた。
あの一本の木。
上から呼び続けてくれた仲間。
谷の下の方から励ましてくれた見知らぬ人。
そして、
命を包み込んでくれた山。
自然は美しい。
しかし、
自然は決して人に媚びない。
だからこそ、
おそれ、
備え、
仲間を信じ、
命を大切にしなければならない。
藤河渓谷。
その滝の音は今もなお、
私の胸の奥で静かに流れ続けている。
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